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#1673:焔の月 13日目
(……あ
 痛い、

(錆びた剃刀が私の顎を切り
 指に薄く血が伸びる

(かつて髭は父性と憧れの象徴だったが
 その手触りは独房の湿っぽい記憶と結びつき
 今や刃物を扱うのが困難なこの手でさえ
 厄介なほど神経質になる

(けれどこの有様では
 居心地が悪い
 人前に立つのが億劫になる
(顎にはほんの爪の先ほどの傷がひとつ
 しかしくっきりと刻まれていた
(皮肉なことに
 余さず剃ろうとすればするほど傷は増え
 引き攣るような痛みはいやが上にも
 そこに髭があったことを意識させる

(たとえばアッシュ
 あの色は伸びても目立たないだろうか
(金の髭のジル
 生え揃っても柔らかだったし
(アシュラフさん
 私もいつかはあんな風に
(蛙のグレイさん
 つるりとした肌をいっそ羨む
(スチュアート
 あの子の毛皮は手入れもさぞ大変で
(不意にアルメルの
 滑らかな毛並みが恋しくなる
(ウチモさんにはきっと
 女性ならではの苦労があって
(空恐ろしいほどのリュシー
 それでも彼女の潔癖さには敵わない……



(うん

(憶えている
 顔も名前も失われてはいない
(忘れていないことが重要なのでない
 思い出せることが必要なのだ
(明け方に傷付けた顎も
 まぼろしの事典を形作る頭も
 友人の名を呼ぶ胸も
(痛まなくなったら
 終わり

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#1673:焔の月 12日目
(GD――
 ジル・デュプレ
(顔より先に署名が浮かぶ
 先を急ぐようなあの筆跡
(私の友人
 私の同志

(事典のうち数冊は
 ほとんど彼の作品になるはずだった
(私には手酷い言葉を寄越すくせ
 彼の練り上げた博物誌は清冽だった
(彼の文章にコルベルの版画を添えたとき
 私がどれほどの喜びに溢れたか
(だが彼の本意はといえば
 難解な比喩や暗号の皮を被り
 動物の瞳と行間の奥に潜んでいた
(私はそれらひとつひとつと相対し
 苦心して解明に勤しんだのだった

(彼から届いた封筒を開くとき
 私は常に検閲官の気分だった
(私が送った便箋を開くとき
 彼もまた分類を強いられたに違いない
(何せ私たちの一挙手一投足に
 警察が目を光らせていたので
(私たちは互いの腹のうちを探るような
 そういう手紙を出し合っていた

(私からの最後の手紙
 彼はどんな顔で読んだろう

(博物学者ジル・デュプレ
 彼なしに「万象の鑑」は成し得なかった

(私の友人
 私の同志
 彼がどうなったか私は知らない

(検閲官ジル・デュプレ……

(彼が居なければ、
 あの事典は

#1673:焔の月 11日目
(裁判官が私の罪を読み上げる
(私を取り囲む視線に
 ありとある種の蔑みが浮かぶ
(侮蔑・軽蔑・失望・嫌悪
(これまでの行いが徹底的に貶められる
 私の処刑は緩やかに始まる

(出版認可の取り消し
 原稿と資料の没収
 事典の焼却
(私家版の一冊も逃れられない
(日記も書簡も余さず曝され
 記された名に警察の手が伸びる

(罰金
 禁錮
 解雇
 著作の絶版
 資格の剥奪
(形の有無に関わらず
 事典に関わった者はみな
 大なり小なり奪われた

(「最後に言い残すことは?」
 いや
 「最期に」だったか
 私は口を開くことを許された
(言うべきことは決まっていた
 私には言いたいことがあった
 どうにかして言わねばならなかった

(「皇帝万歳
 死にゆく者より貴殿にご挨拶申し上げる」

 「皇帝万歳!」

(私は終わる
 私たちは終わる
 「万象の鑑」が終わる
 ひとつの蜂起が終わろうとしている

(そのとき私の胸に去来した感情が
 決して清らかでなかったことを
 私に否定出来ようか
(この唇から零した息が
 確かに笑みに歪んだことを
 私が忘れられようか

(私はそうして笑った
 口を塞がれる前に
(その瞬間
 私の唇は何一つ語ることなしに
 笑うことだけに使われた
(私の呪術
 最後の抵抗

(そしてそれきり
 私からはじめに失われたもののひとつ――

#1673:焔の月 10日目
 Vos quadi
 万象の鑑
 この前時代めいて仰々しく
 いささか野暮ったい名前の書物

 Vo-s, qu-a-di
 その名の示すほうへ

 落日の帝国に
 皇帝の黄昏に
 我らが一撃
 我らが革命……

(…………

(それは残響か
 耳鳴りに似て
 なかなか離れない
(よく聞こえもしないのに

(思い起こすに
 私たちはよく酔った
 時代が終わる予感に
 計り知れぬ変化を思い描いては
 夜ごと酔い痴れた
(魔法のような季節だった
 密造酒の香りと密告者の囁きに
 街じゅうに魔法が掛かっていた

(誰の声だったろう
 あれは私?
 GDの声はもっと通った

(記憶
 何とはっきりしないものだろう

(はじめて番号を付けた本
 プジェの『鉱石図譜』
(はじめて番号を付けた美術品
 イラーチェクの『裸婦立像』
(はじめて渡された日記帳
 注意深く書き付けた紙の白さ
(それなのに

(日記を付けていた
 日記を付けることが好きだった
 一行しか書けない日もあった
 何ページも埋め尽くした日もあった
(それなのに私は

(文字を書くように話したいと思っていた
 GDのように流暢に
 時に捻じ伏せるような正論で
 時に煽り立てるような演説で
 人の声を文字のように捕らえてみたかった

(今は
 書きたいと思う
(話すような滑らかさで
 私の文字を記したい
 私の文字を見てほしい
 私を文字に残したい

(覚えていたい
 彼らを

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